= 加藤英夫のカードマジック研究報告 =

No.252

2014年2月28日

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カーディシャンとしてレベルアップするには、カードトリックを学ぶだけでなく、マジックの不思議さを生むための理論とか、観客に対して演ずるための演劇的な素養とか、さらには人間としての教養をレベルアップさせる必要があるということは、いまさら申し上げるまでもないことだと思います。そのようなことに対して参考になることを、本や雑誌から引用して取り上げていくことにいたします。

奇蹟の追求
= ビル・サイモン、"Controlled Miracles"の序文、1949年 =

レオ・ホロヴィッッは、私たちにひとつの貴重な忠告を与えてくれました。彼は、どのようなトリックも、ダイレクトでシンプルな表現で演じるべきであると言いました。一般の人々は、マジックを見て楽しみたいのです。演技を複雑なものにすることは、そのような観客に対して問題を起こします。すなわち、エンタテイメントが失われてしまうのです。

ホロヴィッッはその問題をもっと具体的に指摘しました。それは、トリックはテクニックを使えば使うほど、見た目が複雑になり得るということです。彼の言った言葉をそのまま再録いたしましょう。

"もしあるトリックに5つの技法が必要だとしたら、それはマジックとして複雑過ぎて実用的なものではありません。それを4つの技法でできるようにしたとしても、まだ見た目が重いものです。そらによく考えて3つの技法でできるようにしたとき、実用的なマジックの領域にようやく入りかけました。それにミスディレクションを加え、技法を2つに減らせたとき、あなたは素晴らしいトリックを完成させたことになります。さらにサトルティを加えて技法を1つに減らせたら、あなたのトリックは偉大なものとなります。そして最後に技法を不要にすることができたら、あなたは奇蹟を演じることができるのです"。

ホロヴィッッの忠告は至上のものでありますが、実現するのは困難です。とくに当書はテクニックを使うカードマジックの本です。しかしながら、私は可能なかぎりサトルティを取り入れ、技法の使用は最低限におさえられるように工夫しました。それは、ホロヴィッッが指摘したように、奇蹟のようなマジックを追求する気持ちがあるからです。

当書におけるトリックをマスターするときは、さらに技法を省き、動作をシンプルにして、さらにショーマンシップを加えることを心がけてください。そうすれば、それらはさらに素晴らしいものとなるでしょう。

私はセルフワーキングトリックを奨めているわけではありません。テクニックとサトルティの融合をはかるという考え方です。そのような方向性の表現として、当書を"Controlled Miracles"と名づけました。


この文章の中で、ホロヴィッツが述べたという、"技法を使えば使うほど見た目が複雑になり得る"ということについて、私の考えを補足させていただきます。例として、"Cardician's Journal"No.249とNo.251で取り上げた、デバイデッドスタックを使ったカード当てを題材とします。

あのカード当ての不思議さの原点は、b群のカードの中に混ぜられた1枚のa群のカードを識別して当てる、というデバイデッドスタックの原理にあります。おそらくすべてのマジックの不思議さの原点は、何らかの原理にあると言ってよいでしょう。

そしてあのトリックでは、a群とb群を識別するのに、カードに何らかの仕掛がしてあったと思います。もしも識別するのに裏面に印をつけたギャフを使ったとしたら、おそらくあの映像のようにクリアな演技にはならなかったと思います。

もしも裏面の印を見分けるとしたら、カードを広げて相手に表を見せるとき、マジシャンは裏面を見て、選ばれたカードが何枚目にあるかグリンプスしなければなりません。あの演技ではマジシャンはカードの裏面を見るような素振りはありませんでした。しかもグリンプスするのだとしたら、視線を動かすことになるでしょうし、もっと長い間カードを広げたまま保持する必要があります。

すなわち、グリンプスという技法をやるということは、そこに怪しさを発生する可能性があるということです。それはこのトリックに限らず、どんなトリックでも技法というのは手とか体の一部を使って行う物理的動作ですから、怪しさを観客に感じさせる可能性があるということです。

それに対して仕掛というものは、相手に感知され得るギャフは別として、いっさい怪しさを発生するものではありません。おそらくあの映像の演技でも、触覚的に自動的に識別できるギャフを使っていたので、グリンプスという物理的技法を使う必要がないのです。

技法を使わないで仕掛で置き換える、もしくは他の原理や演出で置き換えることによって、秘密の部分が観客の目に見えないものとする、ということによって、観客から見た目が複雑にならず、不思議さがクリアに見えるということにつながる、というようなことをホロヴィッツは言っているのだろうと思います。

そうです。技法というものは、いくら上手にやっても、何をやったかはわからなくても、何らかの動作を行うものですから、観客にその部分が見えているのです。パスはいくら上手にやっても、両手でデックを持っていたことが見えています。ダブルカットコントロールは、トップに運んだことはわからなくても、カードの順を変えたことは見えているのです。

マジックというものは、やり方をわからせないというだけでなく、怪しさの気配を感じさせないというところまで磨き上げて、かぎりなく魔法に近づくのです。ビルサイモンの前書のタイトル、'奇蹟の追求'とは、何ともしびれるタイトルですね。