= 加藤英夫のカードマジック研究報告 =

No.292

2014年11月28日

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古きを訪ねてきました

久しぶりに奈良旅行に行ってきました。中学か高校の修学旅行以来ですから、久しぶりどころではありません。50年以上ぶりであることは間違いありません。

さて、先週書いたように、私はいま古いマジック雑誌を調べています。奈良を訪れたのはそれと意図的に関連していたわけではありませんが、古いことを調べる上で、とても参考になった旅行でした。

まず第一に感じたことは、奈良という地もローマと同じで、土地を掘ると古いものが出てくるそうです。近鉄奈良線は平城宮の中を突っ切っていきますが、線路を地下に通す案も出ましたが、地下を掘ると昔の遺跡を壊す可能性があるのでやめたそうです。ということで、奈良に着いた瞬間に、歴史の上を通るという体験をしたおかげで、私たちはいま、過去に築かれたものの上に立っている、通っている、という思いを持つことができました。

歴史を学ぶ上で、そのような思いを持つことが大切であると確信させられた、奈良到着の第一歩でありました。

列車から見ることのできる平城宮の第一次大極殿は、2010年に復元が完成されたそうですが、はっきり記憶してはいませんが、たしか数百億円の費用がかかったとのことでした。はたしてそれだけの費用をかけて再現する価値があるのかと、私には疑問がよぎりました。と同時に、私がマジックについて古いことを掘り下げようとしていることに多くの時間と手間をかけることが、はたして価値があるかどうかということが連想されました。

薬師寺の玄奘三蔵院伽藍は1991年に復元完成されたそうです。西遊記で有名な玄奘三蔵の頂骨の一部が埋められているという伽藍です。私は復元されたいかにも新しい伽藍を見て、現代に復元されたものを見ることにまったく感動しなかったどころか、復元されたものを見せるのはまやかしじゃないかとさえ、そのときは感じました。よほど平泉の法華堂跡のように、礎石だけ見て、その上の空間に堂が建っていたことを想像する方が、心の中でその存在を強く感じることができると思ったものです。

しかしながらそれは私の感じ方であって、一般的には、たとえレプリカであろうとも、目に見えるものがあってこそ、それにまつわることを想像できるのです。建物を見て、その建物を建てた目的、建てたときの状況などを感じること、それが歴史を研究することの意義であり、歴史の研究者は、そのようなことを読者に感じさせるように、考えさせるように書き残すべきであると思いました。

ですから歴史の研究発表は、昔このようなことがありました、ということを書き並べただけでは、たんに自分が知っていることを自慢しているだけになってしまいます。調べたことから、どのような大切なことを読者に知ってもらいたいか、感じてもらいたいか、役に立ててもらいたいか、というフィロソフィーなくして、歴史を研究発表する意義がないと、いま歴史研究に取り組み始めた私は決意したのでした。

このように張り切って仕事に取り組むのはよいのですが、自分が歴史から感じたことを人に押しつけることはよくない、ともわかっているつもりです。建物は見せるが、その中に入っているものはあまり明確に表現しない方がよい場合もあります。それは、ホフジンサーの使った道具とか、演じていた演目などを知ることであり、具体的に方法を知ることではありません。

たとえば沢 浩という、日本の誇るべきマジシャンのマジックを研究する場合、方法を詳しく書いた解説書を読んでも、それほど沢 浩ワールドのすごさは感じられません。方法を読むことが、その世界を想像することの妨げになっているような気がしてなりません。沢 浩のマジックを理解するには、彼の演技を見ること以上の方法はありません。たんに見るだけではなく、彼の演技に感動することが、沢 浩から学ぶいちばん重要なことなのです。

では、演技の見ることができないマジシャンから学ぶには、どうしたらよいでしょうか。もちろん映像が残っていれば、それを見ることは重要です。映像がない場合にはどうしたらよいでしょうか。

石田天海の場合、日産マジックホールや雪印マジックショーに多く出演されたのですが、そのころはビデオ録画が普及していなかったのが残念です。テレビ画面を8mmカメラで撮影した一部の映像しか残っていません。

どうしたら天海を研究できるか。それは天海のマジックについて書かれた書物を読むことが先決です。そして天海のマジックをよく見たことのある識者の話を聞くこともひとつの大切なことです。そういえば沢 浩も天海の教えを受けましたから、彼のマジックからも天海の考えを想像することは不可能ではありません。沢 浩のマジックも、天海の教えを受け継いでいるに違いありません。

"教えを受け継ぐ"、これは歴史を学ぶことの意義であることに間違いありません。しかしながら、教えを受け継ぐだけでは足りません。受け継いだあとに、自分のものを足していく、もしくは自分のものを生み出していく、そうでなければ歴史を研究する意味がありません。歴史の中には、望ましくなかったことも含まれているのです。原子力が工業を発展させたかもしれませんが、東日本大震災は、それが人類にとって大きな間違いであったことを示唆している、ということもあり得ます。

石田天海ですら、アメリカで独立して間もなくは、演技に種明かしを取り入れて、アメリカマジック界からバッシングを受けたことがあります。種明かしをすることが自分の息の根を止めかねない、ということをそのとき痛感したに違いありません。痛感したからこそ、天海はその後アメリカのマジシャンたちから賞賛、尊敬されるマジシャンになったのです。

歴史を学ぶことは人によっては楽しいことですから、それを趣味とするのを批判するつもりはありません。私だって、趣味でやっている部分もあると正直に言いましょう。マジックの理論や歴史を述べるときに、面白さを感じているのは事実です。しかし好きで愛するものであるがゆえに、プロであろうとアマであろうとも、マジックを真剣に考えることを皆様にも要求するのは、理不尽ではないとお許しいただきたいと思います。

マジックが素晴らしいものであることは、私たちはよく知っています。しかしマジックをやらない人にもそう感じてもらうためには、私たち自身が向上しなくてはなりません。向上するためのひとつの手段が、歴史を学ぶことだと私は考えます。

いまインターネットなどでどんどん出てくる新しいと称するマジック、それらを愛でるのは、根を見ずに花だけを見るようなものです。自分が手にした花は、いつか枯れるかもしれませんが、根を持っていれば、また新しい花を咲かせることができるのです。自分の中に根を張らすこと、それが歴史を学ぶことの意義である、という結論を奈良旅行のお土産として、心に刻んで締めくくりたいと思います。